首里城
・木材倉庫
奉神門をくぐって「有料区域」に入ります。いよいよ首里城(すいぐしく)です。ばばーん!と立派な天守が見えてきました。おおー、すげー………え? よーく見ると、木材倉庫の壁に首里城のイラストが描かれているものでした。
おお!立派な首ri…!
首里城の…えぇ(絵)?
復元予想図
首里城の築城年は14世紀末(推定)、廃城年は1879年(明治12年)、琉球処分の年でした。
首里城はこれまでに5回の大火に見舞われてきました。1度目の焼失は1453年(享徳2年)に起きた「志魯・布里の乱」、2度目の焼失は1660年(万治3年)、再建に11年の年月を要しました。3度目は1709年(宝永6年)、正殿・北殿・南殿などが焼失しています。4度目は1945年(昭和20年)、太平洋戦争時、沖縄戦の時代です。5度目は2019年(令和元年)10月31日未明、正殿・北殿・南殿が全焼しました。5度目の大火は、日本国内はもとより世界中に配信されました。1979年(昭和54年)の再建開始から40年目でした。
首里城は、世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして、首里城正殿基壇遺構が、ほかの8つの遺産とともに登録されています。
那覇市街地
那覇市街地
正殿再建の起工式が2022年(令和4年)11月3日に首里城公園内特設会場で行われました。完成予定は2026年(令和8年)秋とのことです。現在、本殿再建中の建屋(加工場)は外から内部を見学できます。看板の猫は、首里城のキャラクター(ゆるキャラ)・猫神の「カミマヤァ~」です。階段には猫の足跡が描かれています。わたしたちは階段を上がってゆきます。
カミマヤァ~に導かれて階段を上がる
加工場の内部
現在の進捗状況
正殿復元、ここに注目!
原木の加工
加工場の裏手には、焼け跡から回収された瓦などが置かれています。一片一片の無残な姿に言葉を失います。また、これまで見学が可能だった世界遺産「首里城正殿基壇遺構」は、現在は正殿復元工事のため見学できません。復元工事が終了後の2026年(令和8年)に公開されます。
今しか見れない
右掖門(うえきもん)の屋根
火災によって崩れ落ちた正殿の石高欄(いしこうらん)、赤瓦、龍頭棟飾(りゅうとうむなかざり)などが回収され、まとめて置かれています。
回収された正殿の石高欄、赤瓦、龍頭棟飾
回収された龍頭棟飾(りゅうとうむなかざり)
回収された龍頭棟飾
世界遺産の看板
首里城は「国の史跡」であり「世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)」の一つです。戦前は沖縄神社の社殿となり、首里城正殿などが旧国宝に指定されていました。しかし、1945年(昭和20年)の沖縄戦、および、終戦後の琉球大学建設(開学:1950年)により、首里城はほぼ完全に破壊されました。
その後、琉球大学は1977年(昭和52年)から1984年(昭和59年)にかけて、中頭郡(なかがみ)郡西原町(にしはらちょう)に移転しました。移転後にキャンパスは解体され、跡地には新たに首里城が築城され、周辺の建物なども復元・修復されました。その首里城が2019年に火災に見舞われてしまいました。
・寝廟殿 東のアザナ
建屋の後方に進みます。「寝廟殿(しんびょうでん)」は国王が亡くなったときに一時的に霊柩を安置するところです。城郭の東端には物見台「東(あがり)のアザナ」があります。首里城にはほかにも「西(いり)のアザナ」があります。
アザナの奥まった場所に「寝廟殿跡」があります。ここにも立派な建物が建立されていたと思われますが、古写真などの資料がないため、未復元となっています。
寝廟殿跡
東のアザナ南方面からの展望
東のアザナ東方面からの展望
東のアザナ西方面からの展望
東のアザナ北方面からの展望
・湯屋
物見台(アザナ)から下ります。途中、盆栽が3鉢展示されていました。盆栽の展示を過ぎると、湯屋(ゆや)と呼ばれる入浴施設があります。あまり深くはないようです。石でできているので、入浴するときは肌に石が当たって痛そうです。
盆栽
盆栽 ブーゲンビリア
盆栽 ハリツルマサキ
盆栽 ミズガンピ 樹齢40年
湯屋
このあと「首里城復興展示室」に入って、休憩がてらスクリーンに映し出された映像をみていました。首里城の歩みが分かりやすく制作されていました。
その後は「女官居室」へ。中は売店(ミュージアムショップ球陽)になっています。ここで、おみやげと自宅の玄関に置く小ぶりのシーサー(2匹セット)を購入しました。シーサーってよく見ると可愛いですね。順路に沿って有料区域から出てきました。
東のアザナを下りて来たところ
漏刻門(ろうこくもん)
城壁
首里城の有料区域を出て、てくてくと道を進みました。うっそうと茂った場所に「第32軍司令部壕」があります。旧日本陸軍第32軍の司令部がここに置かれました。
第32軍司令部壕は第2次世界大戦中、アメリカ軍による沖縄侵攻に備えるため大日本帝国陸軍によって首里城の地下に造設されました。壕の工事が始まったのは太平洋戦争中の1944年(昭和19年)12月、その3か月後の1945年(昭和20年)3月、沖縄戦が開始するまで工事は続きました。司令部壕は全長1キロメートルほどです。
シュガーローフの戦いなどで首里防衛線が崩壊します。1945年(昭和20年)5月、第32軍司令部は首里から撤退、沖縄島南部へ撤退します。その際、壕の主要部分および坑口(出入口)は司令部によって破壊されました。
第32軍トーチカ跡 第1坑道
トーチカ跡のようす
ここに旧日本陸軍第32軍の司令部が置かれた
トーチカの内部
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