首里城公園
その2では「首里城公園」についてアップします。首里城公園は、「国営沖縄記念公園」を構成する「海洋博覧会地区(海洋博公園)」と「首里城地区(首里城公園)」のうちの一つです。分類上では、両者とも都市公園です。当日は梅雨明け直前の曇り空でしたが、観光客の姿は少なくありませんでした(―というか、かなり多かったです)。さすがは亜熱帯!くもりでも蒸し暑かったです。暑さが九州本土とは異なります。
今回は、守礼門から正殿までの画像をアップします。首里城公園の記事は何回か続きそうです。画像を思いつくままアップします。画像は場内の全てを網羅しておりません。ご了承ください。
首里杜館(すいむいかん) 首里城公園レストセンター 守礼門口
守礼門
扁額には「守礼之邦(しゅれいのくに)」と記されています。意味は「礼節を重んずる国」です。かつて中国の冊封国家であった琉球王国は、中国の皇帝が代替わりするたび、皇帝の命を受けた「冊封使(さっぽうし)」が琉球をはじめ各冊封国家に派遣されました。冊封使は数百名にもなりました。琉球王国では冊封使らが来訪するたびに礼を尽くしました。「おもてなし=中国皇帝への礼節」でしょうか。
正面
裏面 守礼門をくぐったところ
園比屋武御嶽石門
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)は、1519年、尚真王(しょうしんおう)の時代に建立されました。1933年(昭和8)国宝に指定、その後、沖縄戦で一部が破壊されました。1957年(昭和32)に復元、国指定重要文化財になりました。2000年(平成12)には世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として登録されました。首里城公園内で登録された世界遺産は、園比屋武御嶽石門のほかには首里城跡(しゅりじょうあと)と玉陵(たまうどぅん)があります。
園比屋武御嶽石門
歓会門
歓会門(かんかいもん)は、中国皇帝より派遣された冊封使を歓会(歓迎)する意味で名付けられました。1477年~1500年ごろ(尚真王代)建立されました。先の沖縄戦で焼失しましたが、1974年(昭和49年)に復元されました。
歓会門 奥に進む
歓会門
歓会門の右側 シーサー オス
歓会門の左 シーサー メス
あとはちゃっちゃかちゃーと画像を貼ってゆきます。結構、坂がきついので、写真撮影よりも歩くのにエネルギーを使ってしまいました。高温多湿な気候のため、ナウで元気でヤングな若者(!)も、城壁を歩くのは少しはきついかと思われます。
瑞泉門(ずいせんもん)
龍樋(りゅうひ)
漏刻門(ろうこくもん)
だらだらと順路にそって首里城の正殿付近まで上がってきました。広福門(こうふくもん)が見えてきました。広福門の創建年は不明、明治末期頃に撤去、1992年(平成4年)に復元されました。現在は有料区域へのチケットを販売する券売所が入居しています。
広福門
日影台(にちえいだい) 日時計
下の画像の建物は「系図座(けいずざ)」「用物座(ようもつざ)」です。現代でいえばオフィス的な用途の建物です。系図座は士族の家系図を管理しており、用物座は首里城内で使用する物品・資材等の管理をしていました。2000年(平成12年)に復元されました。休憩所・情報案内所として使用されています。下之御庭(しちゃぬうなー)は系図座・用物座の建物の正面の広場のことです。
系図座・用物座 手前の広場は下之御庭
久慶門(きゅうけいもん)の創建は1477年~1526年(尚真王(しょうしんおう)代)といわれます。1983年(昭和58)に復元されました。
久慶門(きゅうけいもん)
奉神門
奉神門とは「神をうやまう門」という意味です。これまでにたくさんの門がありましたが、いよいよ首里城正殿が建立する「御庭(うなー)」へ入る最後の門です。創建は1562年以前です。その後、1754年に改修され明治末期頃に撤去されました。1992年(平成4年)に外観が復元されています。三つの門と二つの部屋が設けられた門で、「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいわれています。
三つの門のうち、中央の門は琉球国王をはじめ中国皇帝から派遣された冊封使など身分の高い人だけが通用する門でした。両脇の門はそれ以外の役人らが入城するのに使用されました。
向かって右側(南側)の部屋は「君誇(きみほこり)」と呼ばれ、城内の儀式のときなどに使用されました。左側(北側)の部屋は「納殿(なでん)」と呼ばれ、薬類・茶・煙草などの出納を取り扱いました。
奉神門
扁額 奉神
奉神門の先からは「有料区域」に入ります。入場する前に、券売所でチケットを購入せねばなりません。ゆいレール(沖縄都市モノレール)の1日券・2日券をもっている場合は入場料が割引になります。わたしと親族Nは2日券を持っていたのでラッキーでした。過去の琉球国王などが使用した正門を潜り抜けて城内へはいりました。
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