日別アーカイブ: 2005年5月6日

吉野ヶ里歴史公園 2

前回の記事 吉野ヶ里歴史公園1

南内郭の次はさらに西方向へ。大きな壕が復元されており、敵の侵入を防ぐための逆茂木や乱杭が覆っていました。古代式のバリケードです。

バリケードの奥は「倉と市(いち)」と呼ばれる倉庫群です。市(いち)の中心にある楼閣と国内外と取引された物資などが収納された倉庫群があります。吉野ヶ里はかなりの規模を持つクニとみられています。

倉と市を出て、北の方向へ向かいます。「北内郭」は政(まつりごと)を行う場所です。北内郭の中心部に聳える「主祭殿」は祭祀の中枢とみられています。高床式の建造物で、2階(中層部分)は政治の場、3階(上層部分)は祭祀の場であったと考えられています。東祭殿は高床式で、夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上にあります。

北内郭を出て道なりに「甕棺墓列」に行く途中で公園の敷地から出てしまいます。敷地から外れた場所には「日吉神社」が建立されています。公園のマップには記されていないので見落としてしまいそうです。

日吉神社を過ぎると再び公園の敷地に入ります。甕棺墓列は当時の一般人とみられる人々の墓地です。その奥には「発掘現場」がひろがっていました。板が渡されており、その上を渡って遺跡を見学することができました。

その後、親族らと園内で食事を取るため「市の広場」へ。ここでは弥生時代にまつわるイベントが開催されていました。人力で火を起こしたり、勾玉を作ったり。勾玉は石を磨いて作ります。その後、赤米を栽培している「水田(復元水田)」を経て(カモがそばの小川を泳いでいました)、「弥生の大野」を抜け「遊びの原」へ。ダイナミックな大型遊具に、親族らは疲れるまで遊び通しました。わたくしは心地よい5月の風に吹かれて、「このまま時間が止まってくれればいいなあ~」とぼんやり考えていました。

夕方、遊び疲れた親族らと一緒に、東口の歴史公園センターまで戻ります。名残惜しいですが、そろそろ自宅のある福岡市内まで帰らねばなりません。古代人と古代の文化を身近に感じた旅でした。

※画像は消失したためアップしておりません

【後日記載】

2006年(平成18年)3月、吉野ヶ里遺跡が属する神埼郡三田川町と東脊振村が合併、「吉野ヶ里町」となる。神埼町は脊振村、千代田町と対等合併、市制施行し「神埼市」となり神埼郡より離脱。現在、神埼郡が属するのは吉野ヶ里町の1町のみとなる。