日別アーカイブ: 2020年1月1日

史跡・福岡城跡 1

2020年・令和2年。元旦の福岡市内は珍しく快晴、お散歩日和でした。早速、「福岡城跡」まで出かけてきました。昨夜から未明にかけてとても寒かったもの、昼間は春めいて温かい一日でした。

福岡城は安土桃山時代の1601年(慶長6年)、黒田官兵衛の長男・黒田長政によって7年がかりで築城されました。「舞鶴城」ともよばれ、代々黒田家の居城でした。築城より270年後の1871年(明治4年)、廃藩置県により福岡城は廃城となっています。

携帯電話で撮影しています。国体道路側の搦め手門(裏門)より入りました。西側は福岡市美術館、南側は福岡県護国神社です。ここから天守台を目指しました。そのあと舞鶴公園~大濠公園側へと抜けてゆきました。

元旦ともあって、かなり人は多かったです。半袖男児の姿もありました。いつの時代も子供は元気ですね。

国体道路に面した「搦(から)め手側」(裏門)より、入場しました。現在、福岡城では夜間イベントが行われており、夜間入場する際は有料ですが、イベントがない昼間は無料にて入場できます。池では水鳥が羽を休めていました。六号濠(池)の右側の三大橋を渡ります。


裏門 搦(から)め手側 左は「六号濠」 右は「三大橋」


六号濠 水鳥が飛来してきた


この階段を上がる

階段を上ります。やや急斜面です。現在では階段と手すりが設置されていますが、昔、福岡城が黒田家や家臣らによって使用されていたころは、このような手すりも階段もなかったかもしれません。道なりに進むと「南丸」が見えてきます。

多聞櫓は1973年(昭和47年)10月から1975年(昭和50年)3月までの2年半にわたり解体、復元されました。


南丸 多聞櫓(南隅櫓)が見える


多聞櫓(北隅櫓)

南丸より道なりに進みます。ごつごつした石垣の間の通路を通ります。福岡城は別名「石城」と呼ばれる所以(ゆえん)がわかります。鉄砲櫓は天守台の西側に位置します。鉄砲櫓は当時の城の防衛を担う重要な施設です。石垣と石垣の間の通路の端には、何重ものケーブルが這わせてあり、所々に投光器がありました。


桐木坂御門跡


手前:「シバザクラをそだてています」の札 後方:コスモスの花


鉄砲櫓跡へ向かう


鉄砲櫓跡

鉄砲櫓跡から天守台を目指します。やや広い場所に出てきました。黒いテントが設営されています。昼間はテントは閉じられています。夜間のイベントで使用されるものです。天守台方面に向けて機材が設置されていました。また、福岡城はサクラ(ソメイヨシノ)などの落葉樹も少なくないので、冬の間は枯れ木・枯れ枝が多い印象があります(葉がないだけで枯れてはいません)。


イベント用のテントが設営されている


正面は天守台 イベント用の機材


画像中央は野球場


通行禁止

てっぺんまであと少し。埋門(うずみもん)跡に出ます。埋門をくぐり、階段を上がって埋門の上を通って天守台へ向かいます。天守台へ向かう手前に「大天守台跡」があります。おそらくは天守閣の土台であったといわれています。ただ、専門家や愛好家らによって福岡城天守閣の存否は議論されています。


画像左側方面に天守台へ続く階段がある


埋門(うずみもん)跡をくぐる


橋から撮影


大天守台跡

天守台より福岡市街が一望できます。ただ、望遠鏡などは設置されていません。黒田の殿様の時代の福岡の風景はどんな様子だったのでしょうか。海岸線は近かったと思われます。


天守台の風景


東側:遠くに三郡山地が見える


東側:飛行機が福岡空港へ向かう


東二の丸(右:舞鶴公園野球場)


北西:舞鶴公園三ノ丸広場 木下大サーカスのテント


西北西:シーサイドももち方面


西側:大濠公園の濠(池) 建設中のビルは西新ブリリアタワー

長くなるため、記事を二つにわけます。

次回に続く 史跡・福岡城跡2